2013年12月20日金曜日

瀬戸内海交通/愛媛22か1807

引き続き瀬戸内海交通から、今回は象徴的な車両をご紹介しましょう。 

 
瀬戸内海交通のフラッグシップともよべる大三島急行線(今治桟橋~宮浦港)に充当されていた愛媛22か1807号車で、型式はP-LV218Q、ボデーは ご覧のとおり西工58MC B-Iです。平成元年に導入され大三島営業所に今年8月まで配置されていた急行専用車で、同社に在籍した最後の路線シャーシ長尺車であるとともに、最後の58MC急行車でした。


 車内には13列の座席を有し、補助席を含めた旅客定員はなんと65人。通勤通学輸送に対応した詰め込み仕様です。キュービック最長となる軸距6.0メートルの大型長尺車とは言え、同路線の最新鋭車であるエアロエースの旅客定員が55人であることを考えると、その窮屈さが想像できることと思います。


路線用のシャーシでこの定員を実現するにあたり、少しでも客室面積を増やすためエンジンを横置きとするなど工夫は見られますが、再び同様の車両を導入することは到底不可能でしょう。

ちなみに、同車は今治~大三島線用としてではなく、下田水~大三島線(昭和63年開設)用として導入されています。これは当時、今治と大島を結ぶ来島海峡 大橋が未供用であったことから、今治との連絡船が発着した大島・下田水港を起点に島間連絡急行バスが運行されていたことによります。

なお、この路線は平成11年の来島海峡大橋架橋後も存続するものの、平成19年をもって廃止されました。このとき1807号車も予備車に格下げされ、以後は大三島急行線の代走・応援を中心に活躍しますが、今夏導入されたエアロエースに代替され引退となったのでした。


2013年12月16日月曜日

瀬戸内海交通/大島島内路線(その2)

前回に続いて、大島島内路線の歴史と、知られざる路線について紹介します。

島という海運が優勢となる立地条件ながら、大島におけるバスの歴史は比較的古く、昭和6年には個人(矢野武夫)の手で宮窪~幸間のバス営業がはじめられて います。6人乗りのシボレーただ1台で行われた小さな事業でしたが、戦争が激化するまで10年以上にわたって続けられました。

戦争が終わると昭和27年に宮窪~吉海間にバスが復活します。同じく個人(小原博・現在の小原タクシー)によるもので、免許上はハイヤーであるものの、事実上の乗合バスだったようです。同様の事例は各地に見られ、愛媛県内でも弓削島や中島で同様の行為が行われておりました。


道路運送法に基づく「乗合バス」が登場したのは昭和36年のこと。大島をはじめ、近隣の大三島など越智郡三島五町(現在の今治市島嶼部)の共同出資によって設立された「大三島観光交通」が、宮窪~幸間で路線を開設しました。個人による脱法的な営業を正し、また地域内で体系的な路線網を築くためにも、会社組織による運営が求められていたのです。

その大三島観光交通は瀬戸内運輸の資本参加を経て、昭和39年に瀬戸内海交通へと社名を変更します。そして翌40年に大島営業所が開設され、それを受け下田水から田浦・早川・友浦へ向かう路線が相次いで開業。ここに現在まで続く路線網が完成したのでした。

さて、バス網の整備に合わせて進められたのが、島内にある小学校の廃統合(宮窪・吉海小学校に統合)です。近頃はどこの過疎地でも行われている学校の統合ですが、大島に当時存在した宮窪・吉海の両町では、この時期に行われました。

統合新設された学校への通学手段は、もちろん上記の路線バスなのですが、それらのルートから外れる集落からの足として、朝夕のみ運行のスクールバス が設定されました。これが時刻表に載っていない「知られざる路線」なのです。そう、このスクールバスの特筆されるべきは、あくまで一般路線であり、誰しも が乗車をできるという事でしょう。

ちなみに、「スクールバス」の運行ルートは以下のとおり。
朝方
営業所→志津見を往復→南浦→名駒→下田水→営業所
夕方
下田水→名駒→南浦→営業所→志津見を往復→営業所

配布時刻表は存在せず(平成15年までは主に生徒向けとして作成していた)、方向幕も社幕で代用されることが多いのですが、れっきとした路線バスです。

最近の学校統廃合では、十中八九専用のスクールバスが用意されます。昭和中頃という早期に統合が行われた大島ならではの「限りなく貸し切りに近い」一般路線。たいへん珍しい存在と言えます。

その特殊性に加え、もちろん長期休暇や土日など学休日は全て運休ですから、相当に乗車ハードルは高いですが、運行日に大島を訪れた際にはぜひ乗ってみてください。

2013年11月30日土曜日

瀬戸内海交通/大島島内路線(その1)

とりわけて私の好きな路線を紹介しましょう。瀬戸内海の島々を営業エリアとする瀬戸内海交通の大島島内路線です。
造船やタオルで知られる愛媛県今治市は、四国本土側の旧市街地に加えて、芸予諸島上の大三島・伯方島・大島などの島々をも市域に含んでいます。このような 島々を営業エリアとするのが瀬戸内海交通で、今治市本土を含めた愛媛県東予地方を広くエリアとする瀬戸内運輸の子会社です。


 同社の路線で有名なのは、しまなみ海道を経由して島々と本土を結ぶ宮浦港~今治桟橋間の急行便ですが、地道に島内の公共交通を担うローカル路線の存在も忘れてはなりません。

このうち私が特にオススメしたいのが、本土から最も近い大島の島内路線でありまして、以下の3系統に大別できます。
下田水-田浦
下田水-友浦
下田水-早川
ターミナルとなっている下田水は、島の南部にある港で、かつては今治との連絡船が発着した玄関口でありました。そして、ここを出たバスは、島で最も大きな吉海の町を経て、終点の小さな集落へとそれぞれ向かっていくわけです。

ここには架橋前の路線網がそのまま残されており、それだけでも好ましいのですが、なによりも素晴らしいところはその車窓にあります。
下田水で来島海峡大橋を仰ぎ見たかと思うと、今度は吉海の町に残る狭隘路をそろそろと進み、まもなく終点の漁村へといった具合で、これはまさにイメージした通りの「島のバス」ではないでしょうか。



ちなみに趣味的に見ると、同社には四国地方で唯一となる西工58MC架装車が在籍しており、トップドアであることもあわせて嬉しい点かもしれません。

このように路線良し、車両良しの大島島内路線。今治や尾道を訪れた際は、ぜひ足を伸ばして乗車をしてみてください。

2013年10月3日木曜日

【バス終点】南伊豆東海バス/下加茂-天神原

■終点:天神原(てんじんばら)
バスは、おおよそ伊豆のイメージとはかけ離れた、鬱蒼と茂る杉林を抜けていきます。
その先に、夕日に照らされた天神原の集落がありました。


伊豆半島の南端に位置する南伊豆町は、石廊崎灯台に代表されるように、海沿いのイメージが強い町です。
しかしながら、意外にも町域は広く、山間集落も多く抱えています。

それら集落を結びつつ走るのが、この下加茂~天神原線で、1日6往復のみのローカル線です。 
役場が置かれている下加茂から、青野川に沿って狭隘県道を終点目指して上っていきます。 


そして、それら集落らの一番奥にあるのが、高台に開けた天神原なのです。 

この奥深い集落を開拓したのは、終戦直後に夢破れて外地から引き揚げてきた人々で、 バス停の横にも戦後開拓村であることを伝える記念碑があります。 


なにより、ここでは今でも伊豆方言ではなく、標準語のイントネーションが根付いているそうです。

戦後70余年、今なお天神原には引き揚げの歴史が息づいています。
観光地伊豆にも、こんな「標準語の村」があるのです。
 (平成25年7月訪問)

2013年7月8日月曜日

【バス終点】高知高陵交通/須崎梼原線

■終点:梼原(ゆすはら) 路線図
四万十川の上流、檮原川の源流近くに、梼原という町があります。
四国山地の西部、愛媛県との県境にある山深いところです。

濃緑に抱かれた家々は、谷あいに寄り添うよう屋根を連ねています。 合併前の人口はおよそ二千。険しい地勢ながらも大きな集落です。
これはひとえに津野氏、長宗我部氏の頃より伊予に通じる国境の村であったからに他なりません。梼原には、須崎から大洲へと続く梼原街道が通ります。

その道は峻険な四国山地にふさわしく、山肌に貼り付いた頼りない道です。しかし、高知から梼原への道は他になく、幕末期には坂本龍馬をはじめ、土佐勤王党や天誅組など、多くの志士たちがここを通って脱藩していきました。

写真中央の道を走ります
もちろん、高知高陵交通の梼原線もこの道を通ります。 底深い谷をつづら折りの道で進み、当別峠を越えて梼原へ。ローカルバスの似合う山間の小道は、見かけによらず壮大な歴史の道なのでありました。
(平成24年8月訪問)

■路線概要
県交通グループに属する高知高陵交通は、梼原町の出資によるバス会社であった梼原観光自動車と、高知県交通の2社によって設立された会社であり、高知県西部の須崎市および高岡郡内山間部を主な営業範囲としています。

須崎梼原線は同社における最も主要な路線であり、「須崎本社営業所」と、「梼原営業所」間を結んでいます。

路線の歴史も古く、昭和元年に須崎梼原間が開業し、昭和38年には高知市への直通急行バス「ゆすはら号」が走るようになりました。

基本的には国道197号線を走りますが、途中の大川第一停留所-桂トンネル間で旧国道となる県道377号線を通る「大西経由」便と、そのまま国道を走る「布施ケ坂新道経由」便、ふた通りの経路があります。特に県道区間は狭隘路が連続します。
なお、高知直通便は全て新道経由です。

平成23年10月1日改正時点で、須崎梼原間は5往復あり、うち大西経由が2往復です。ほかに須崎杉の川間、須崎新田間、新田梼原間の区間便が若干あります。
曜日によって運行本数が変わりることはないですが、新田梼原間の区間便については学休期間中の運行がありません。


■狭隘区間:大川第一から桂トンネル(大西経由便)
須崎から30分ほど。旧葉山村の役場が置かれた津野町永野の集落を過ぎてまもなく、バスは国道から逸れて、旧国道である県道377号線へとハンドルを切ります。

新荘川の最上流に位置するこのあたりは、川を軸にして北部と南部の山地に分かれた葉山地溝帯を形成しており、県道は川の北岸の断層崖に沿うように走るのです。
道の片側は断崖絶壁が、もう片側には剥き出しの法面がそびえ立つような狭隘路が続いており、加えて、北岸・南岸から新荘川に流れ込む多くの支流が作り出した河岸段丘を越えつつ進むこととなるため、上り下りの勾配もきつく、車窓の遷り変りには全く飽きがきません。

それぞれの支流との合流点ごとにある集落をいくつか過ぎ、鶴松(かくしょう)森の巨峰が仰ぎ見えるようになると、バスは再び国道へと戻ります。 野越トンネルで新荘川水系と四万十川水系との分水嶺を越えると、いよいよ梼原町です。

2013年7月2日火曜日

【バス終点】宇和島自動車/武者泊線

■終点:武者泊(むしゃどまり) 路線図
宇和島から1時間の城辺ターミナルで乗り換えること、更に1時間。
崖に貼りついてヘロヘロと続く道の終わり、そこが終点でありました。
稜線近くにある小高いバス転回場から下を見ると、深い入江にへばりつくよう家並みが広がっています。

ようやく行き着いた武者泊は、そんな外海の集落でした。


愛媛県の南端、御荘から宇和海に突き出すように船越半島が伸びています。
リアス式海岸が続き、古くから好漁場として知られているところです。

半島は瀬戸内側と太平洋側で地域がわけられ、それぞれ内海(うちうみ)、外海(そとうみ)と呼ばれています。
比較的波穏やかな内海に対して、太平洋の波洗う宿毛湾に面する外海では、黒潮の分流が海岸を激しく洗うのです。

このような環境の違いは、地域の糧である漁業にも現れており、 内海で多く目にした真珠やブリの養殖筏は少なく、かわって一本釣り漁船の姿が多くなります。外海、なかでも武者泊は、昔ながらのカツオ一本釣りで暮らしをたてている所なのです。


あいにく訪れた3月のあたまはカツオ漁の夜明け前。しかし、どこまでも静かな集落ながら、その後ろには入り組んだ海岸線と豊かであろう大海原が広がります。目をとじると大漁旗を掲げて帰港する漁船が浮かぶようです。

「今は一番に時期が悪いですよ。また来たらええです。」
ハンドルを握る運転士も、こう言ってしきりに惜しがってくれたことですし、ぜひ漁のシーズン中に再訪してみようと思う終点です。
(平成25年3月訪問)

■宇和島自動車武者泊線概要
国道56号線沿いの城辺バスターミナルと、船越半島南端の武者泊を結ぶ路線です。

昭和14年4月20日に開業した城辺~船越間を基本としており、以後、道路の改良を待って順次延伸を重ねてきました。
戦争を挟んだ昭和22年5月15日には船越から福浦まで、続く昭和34年1月31日には麦ケ浦まで延伸され、昭和42年6月26日に武者泊まで全通しました。

当初は城辺~船越間において県道34号線を経由していましたが、昭和51年の西海有料道路開通を受けて一部を同道路経由へと振り替えます。その後、平成22年に西海道路経由へと一本化され(小屋浦~竹倉間廃止)、現在の形となりました。(※)

開業時の運行本数は確認できませんでしたが、昭和20年6月時点では4往復が運行されています。福浦延伸時にはそのうち3往復が福浦に直通し、残る1往復は船越止めのまま残りますが、麦ケ浦延伸時に4往復すべてが終点まで走るようになり、武者泊延伸時にはこれが6往復となりました。その後の大きな変更はありません。
平成22年10月改正の現行ダイヤでは、1日6往復のうち1往復が日祝運休、2往復が学休日運休で、途中の船越にて外泊方面と連絡する便も設定されています。

全便とも城辺営業所に所属する中型車で運行され、毎晩1台が武者泊にて運転士とともに夜間滞泊をおこなっています。また、西海道路口~武者泊間は自由乗降区間の指定を受けています。

(※)県道320号線西海有料道路は平成18年に無料開放され、平成24年には県道34号線に統合されています。そのため、廃止された区間を正確に言うと、県道34号旧道区間となります。 

船越入口~船越間にて
■参考文献
『西海町誌』(西海町、昭和54年)
『御荘町史』(御荘町、昭和45年)
『全国バス事業要覧 昭和27年度版』(日本乗合自動車協会、昭和26年)
『全国バス事業要覧 昭和30年度版』(同上、昭和29年)
『愛媛県のバスとタクシーの歩み』(愛媛県旅客自動車協会、昭和38年)
『宇和島自動車労働組合50年史』(宇和島自動車労働組合、平成9年)
『角川日本地名大辞典 愛媛県版』(角川書店、昭和56年)

2013年5月26日日曜日

中島汽船バスの歩み

■中島汽船バスの歩み
主要道路すら貧弱な中島に、はじめて自動車がお目見えしたのは、戦後混乱期を脱した昭和27年のことでありました。大浦で商店業を営む富永忠がハイヤー営業の認可を得たのです。唯一となる自動車は三菱機械工業製・ジャイアントAA7型コンドル(8人乗り)、いわゆるオート3輪であり、営業と運転は弟の富永考がひとりであたったそうです。

与えられたのはハイヤー免許ながら、住民の希望もあって実際はバス運行の形をとっており、大浦~神浦間を日に9往復、全区間の運賃は30円でありました。「バス」は1台しかなかったため、車検こそ島内で行う許可を得たものの、検査・整備は主に夜間に行わざるを得ず、故障運休も珍しくはありませんでした。また、当然ながら無認可の乗合行為は高松・松山の両陸運局から度重なる注意を受けており、運行の安定・健全化を図るために、昭和33年6月に町営移管が行われたのです。

バスの運行業務は既存の観光課を改組した運輸観光課があたり、その管理は引き続き富永考が担当、車庫も既存のものを活用しました。町営移管後は道路整備を待って順次路線網の拡大が図られます。まず昭和34年3月に大浦宇和間を延伸、同年12月には吉木(※)、昭和35年の車庫・営業所新築を挟んで、38年8月には饒、39年5月には大浦から北へ粟井まで、40年6月には粟井~大泊口・饒~畑里がそれぞれ開業し、いよいよ42年5月には島内一周運行がはじまります。そして、中島唯一の隧道である辻堂トンネルの開通を受け、昭和46年3月に島を横断するトンネル線(大浦~西中港)が開業。このとき現在まで続く路線網が完成をみたのです。

(※)吉木については民家の立退き問題で交渉が難航し、34年に乗り入れたのは吉木集落の西端にあたる吉木墓所(停留所現存せず、吉木より150米ほど西側)まで。現在の吉木停留所まで達したのは38年8月。 

なお、40年7月から町内を区域とする貸切営業も開始し、48年8月には松山市・北条市へと営業区域を広げています。

このようにして町営バスは中島に欠かせない交通手段となっていきました。しかし、ながらく続いた町によるバス運営は、平成大合併によって終わりを迎えることになります。過疎化に悩む中島町は松山市への吸収合併を希望したのですが、この際に松山市から提示された条件が、慢性的な赤字を抱える町営汽船および町営バスの民営化でありました。これを受け平成15年10月に民営化方針が示され、同年12月に石崎汽船が譲渡先企業として選定されます。こうして石崎汽船と町内全地縁団体の出資によって設立された中島汽船株式会社へと一切の事業が譲渡されることになりました。

そして平成16年10月1日に大浦港において出発式が開かれ、同日より中島汽船バスが走り出しました。平成11年の弓削町営バス廃業(自主運行化)以降、愛媛県唯一となっていた公営バス(※)はここに消え、中島のバスは半世紀を経て再び民営に戻ったのです。

(※)地方公営企業法に基づくもののみで、廃止代替バスを除く。

■年表
昭和27年10月 株式会社富永商店にハイヤー免許が交付される。大浦~神浦間にて事実上の路線バス営業開始。
昭和33年6月 温泉郡中島町運輸観光課に移管。大浦~神浦間免許、正式開業。同時に宇和間までを出張診療に向かう町立中央病院の医師用「病院診察車」名義での定期試運転開始。
昭和34年3月 神浦~宇和間間正式開業。
同年12月 宇和間~吉木墓所間開業。
昭和35年5月 車庫・営業所を新築。
昭和38年8月 吉木墓所~吉木~曉間開業。
昭和39年5月 大浦~粟井間開業。
昭和40年6月 粟井~大泊口、曉~畑里間開業。
昭和40年7月 貸切営業開始。
昭和42年5月 畑里~大泊口間開業。環島路線の完成。
昭和46年3月 トンネル線(大浦~西中港間)開業。
昭和48年8月 貸切営業区域を北条市・松山市へ拡大。
平成15年10月 松山市の合併を見据え、民営化の方針を提示。
平成15年12月 譲渡先企業を石崎汽船に決定。
平成16年4月 中島汽船設立。
平成16年10月 中島汽船が町営汽船・バスの全事業を譲受。営業を開始。 

2013年5月10日金曜日

【バス終点】小田急バス/向13系統

■終点:明治大学正門(めいじだいがくせいもん)
新宿から小田急線で半時間ほど、多摩川を越えた先に小高い生田の丘があります。
その丘の頂に広がるのが明治大学の生田校舎で、どこか国立大学のような緑豊かなキャンパスです。


今でこそ若者の声が絶えない活気あふれるところですが、 戦前から戦中にかけて陸軍の「登戸研究所」が置かれ、細菌兵器や風船爆弾の開発が行われていたことで知られています。

戦後、研究所跡地にひらかれたのが生田校舎なのです。


その明大行きのバスは向ヶ丘遊園駅から。団地が並ぶ丘の斜面を駆け上がり、大学の正門をくぐった先が終点です。

大学構内らしく入学式のころには花びら舞い、それはそれは絵になるバス停ですが、この桜が植樹されたのは意外にも戦前だそう。


美しく咲き誇る姿からは想像がつきにくいものの、少しく残る当時の実験棟と共に陸軍時代を知る数少ない生き証人なのです。

(25年4月訪問)

2013年4月9日火曜日

【バス終点】高知東部交通/馬路線

■終点:魚梁瀬(やなせ)
太平洋に沿って走ってきた安芸からの小型バスは、安田の貯木場を見過ぎると、いよいよ急峻な四国山地へと入っていきます。

このあたり、高知県東部にある安芸郡は広く林業で栄えた所で、なかでも広大な国有林が広がる魚梁瀬は、営林署の手で拓かれた四国を代表する林業の村です。


魚梁瀬の歴史を紐解く上で重要なのが、山深い奥地にある森林資源を切り出すために作られた魚梁瀬森林鉄道で、魚梁瀬と安田(田野)、奈半利の貯木場を結びました。この建設こそが、魚梁瀬を拓き、発展させたのです。

それまで、もっぱら人力や牛馬車、そしてせいぜい奈半利川・安田川を利用した流材によって木々を伐り出していた四国山地に、はじめて近代的で効率的な輸送手段が現れたのですから、それはもう革命でした。

時代が進んだのちのこと、電源開発による奈半利ダム建設に伴い、材木輸送はトラックへと代替されますが、一部区間では道路へと転用され、かつての鉄道ルートは今でも欠かせない大事な輸送路となっています。


もちろんバスも鉄道跡を走ります。安田川沿いに魚梁瀬へ続く県道12号線は、安田から既に離合すらままならない「険道」 ですが、途中の馬路をすぎると特にカーブが増え、右へ左へ車体を大きく揺らしつつ進んでいきます。

鉄道は急勾配を避けるために蛇行を繰り返しますから、続く曲線は、ここにかつて鉄路が引かれていたことを物語っているのです。


バスの終点・魚梁瀬はダム建設によってその姿を変え、整然と区画整理された移転集落からは昔を偲ぶことはできませんが、村を切り拓いた森林鉄道の面影は、今も山中にしっかりと残されています。

■高知東部交通馬路線路線概要
安芸と魚梁瀬を安田川沿いに結ぶ路線で、平成22年3月改正の現行ダイヤでは全線毎日2往復に加え、途中の馬路まで平日2往復、日祝日1往復の区間便が加わります。

この路線の歴史は古く、高知県交通の前身にあたる野村組自動車部の手によって、大正9年に安芸・馬路間が開業しました。
しかしながら、残る馬路・魚梁瀬間の開通は遅く、森林鉄道の廃止に伴う道路拡幅が完成する昭和37年まで待つこととなりました。
その後、高知県交通の地域分社化方針に基づき、平成5年に高知東部交通へと路線移管され現在に至ります。

なお、明治40年~昭和38年まで当地には魚梁瀬森林鉄道が引かれ、生命財産の保証をしない「便乗」という形で住民の乗車が認められており、バス開通まで地域の足として重宝されていました。

(25年3月訪問)

2013年3月21日木曜日

【バス終点】琴参バス/瀬戸大橋線

■終点:浦城(うらじょう) 路線図
昭和50年代、瀬戸大橋の架橋工事と共に、それまでの静かな島の景観は大きく変貌を遂げました。
ここは塩飽諸島の最も東に浮かぶ、香川県坂出市・与島。瀬戸大橋の橋台となった島です。


古くは石材と製塩で栄えた地ですが、大坂築城にも使われたという与島石の採石場付近を土台とし大橋が架けられ、そこに暮らした人々は島北部の塩浜塩田を埋め立てた新興住宅街へ移り住んだのです。


伝統的な産業と引き替えに、島は便利になったと言います。島内には島民専用ながらインターチェンジが設けられ、四国本土まではわずか10分で行けるようになりました。

そして、それまでの渡船からバトンを受けた琴参バスが、新たに坂出や児島へと働きに出るようになった島の人々を運んだのです。


もちろん、橋が架かろうと変わらなかったものもあります。
そのひとつが橋とは関わりなく今に続く産業、漁業です。鯛・鰆・メバル・蛸...島のまわりは、今でも多くの魚種を誇る好漁場として知られています。

とくに、橋台からは少しばかり離れた島の東部にあり、漁業で栄えた浦城集落の光景は昔のまま。変わっていません。

変わらなかった景色、変わった景色。
瀬戸大橋を走る異色のローカルバスは、大橋を望む漁港脇の潮錆たバス停から、今日も坂出を目指して走り出します。


■琴参バス瀬戸大橋線路線概要
坂出・与島・櫃石島を結ぶ琴参バス瀬戸大橋線は、 瀬戸中央自動車道の開通に合わせて、琴参バスの前身にあたる琴平参宮電鉄が昭和63年4月10日に開設した路線です。
当時は岡山側・下津井電鉄との共同運行路線であり、児島坂出間を直通で結びました。
直通が廃されたのは平成17年のことで、与島ないし櫃石島を境に本州側・四国側で系統が分割されました。
ただ、現在でも下電バスとの接続は考慮されており、坂出市内相互発着の場合は通算運賃も設定されています。

平成22年10月改正の現行ダイヤでは、坂出-与島間毎日6往復に、土休日運休の坂出-櫃石島間1往復が加わり、平日7往復・土休日6往復が運行されています。

なお、瀬戸中央道開業当初は瀬戸大橋を介して岡山香川両県を結ぶ路線バスが多数設定されており、児島坂出間のほか、 岡山高松、倉敷高松、岡山琴平、倉敷琴平を合わせた5路線が存在しました。

(25年2月訪問)

2013年3月15日金曜日

【バス終点】瀬戸内海交通/宗方線

■終点:宗方港(むなかたこう) 路線図(この一部[宮浦~宗方]です)
芸予諸島で最も大きな大三島。
その中心・宮浦から、南へと西岸の集落を結びつつ走ってきたバスの終点が、島の西南端にあり海に飛び出るように築かれた宗方の港です。


宗方は、潮の流れが緩やかな天然の良港として古くから知られていました。港のまわりをとりかこむ島々が、さながら天然の堤防の役割を果たしているのだそうです。

それを裏付けるよう、当地には航海や潮流と結びつく伝説が多く残されています。

たとえば、当地の八幡神社は、神功皇后三韓征伐のおり、土地の若者が海上案内をしたことに所以があるとされ、また宗方という地名についても、福岡県・宗像神社から神木が流れ着いたことから名付けられたとの言い伝えがあるのです。


しまなみ海道によって島々が繋がった今でも、今治との間が船で結ばれており、このバスも汽船受けのダイヤで走っています。 
来島海峡大橋が架かる以前と変わらないままの、時間が止まったかのようなローカル路線と言えましょう。

とはいえ、やはり架橋の陰で、それまで島の交通を担っていた航路は縮小が続いています。
大三島においても、寄港する航路は本州・四国方面にそれぞれ1航路ずつ残るのみとなってしまいました。

そう、実はここ宗方は伝統の今治航路が発着する島最後の港なのです。

どうかこれからも船受けのバスが走り続けますように。
そこには高速道路とは異なる、のんびりとした時間が流れているのです。


■路線概要
瀬戸内運輸の子会社、瀬戸内海交通の島内ローカル路線です。
宮浦~宗方間は平日・休日問わず13往復のバスが同じ時間に走ります。
昭和46年、瀬戸内海交通によって開設。大三島営業所管内線。
13往復の通常便とは別にスクールダイヤ便(一部のみ一般乗車可/野々江バイパス経由あり)もあり。

(25年3月訪問)

2013年2月10日日曜日

【バス終点】越後交通/長岡駅-寺泊大町

■終点:寺泊大町(てらどまりおおまち)
豪雪の明くる日、雪降り止まぬなか、色なき越後平野をひたすら走ってきたバスは、最後に小さな丘を越えると、日本海広がる寺泊の町へと入っていきます。


ここ寺泊は佐渡路の三国街道終点の宿場町として栄えたところです。また、古くは上杉景勝による兵糧輸送の中継港として、近世では北前船の寄港地として、海上交通の要衝でもありました。

そしてなにより寺泊と言えば佐渡への渡海港でありましょう。
遷御先の佐渡でその生涯を終えた順徳上皇しかり、日蓮上人しかり、佐渡配流とは、ここから対岸の赤泊に渡るものだったのです。


海に面したバス転回場の近くにある防波堤からは、対岸にぼんやりと霞む佐渡島が見渡せます。
あたりは相変わらず雪降りなものの、いつの間にか西の雲は薄くなり、夕日で染まる美しい島影が眼前にひろがっていました。

失意のうちに佐渡海峡を渡る流刑人も見たのでしょうか。幻想的な景色です。

■路線概要
長岡駅と寺泊、またその先にある大野積を結ぶ路線です。
長岡~寺泊間は平日10往復・所要60分、 寺泊~大野積間は同じく8往復・15分です。
廃止された越後交通長岡線(鉄道線)の代替路線でもあり、特に与板以西では鉄道時代とほぼ同じ経路をたどります。

(25年1月訪問)

2013年2月3日日曜日

【バス終点】伊予鉄道/(川内管内)松瀬川線

■終点:松瀬川(ませがわ) 路線図(この最も北です)
「これ、珍しいでしょ。バスがここまで延びてきたとき、家主さんが会社に『ぜひ軒先を使ってください』と言うてくれたそうですよ。」


平日の昼下がり。運転士さんと二人きり、田舎道にエンジンを唸らせながら走ってきた伊予鉄バスが、民家の前で停まりました。

ここは道後平野の東奥にある奥松瀬川集落。道前と道後を隔てる稔山のふもとに15世帯あまりが暮らす静かな山村です。

面白いのは終点の停留所で、なんと集落奥にある民家の軒先に乗り場があるのです。
昔ながらの木製プレートの横には、赤い郵便受け。ここまで地域に溶け込んでいる終点は滅多にないでしょう。

松瀬川までバスが通じたのは、川内管内各線では最も遅い昭和40年の話で、沿線集落からの要望によって開設されたそう。
モータリゼーション前夜のこの時代、横河原の駅まで8キロもある集落のことです。当時、バスがどれほど歓迎されたことか、想像に難くありません。


とはいえ、開設からもう半世紀。時代はすっかり移ろいました。
「バスが出来たとき?思いもつかんねえ。見ての通り今では殆ど乗らないですよ。たまにおばあちゃんが使うくらいですね。」


長らくローカルバスは冬の時代。この路線とて、市の補助金でなんとか維持されているのです。
古き良き頃を知るであろう鄙びたバス停に見送られて、空っぽのバスは少し寂しげに集落を離れていきました。

■路線概要
松瀬川と川内バスターミナル間は土曜平日のみ4往復のダイヤで、うち一部は横河原駅や見奈良駅、東温市役所まで足をのばします。
東温市内の山間集落を結ぶ「川内管内線」のひとつです。

 (24年8月訪問) 

2013年1月30日水曜日

【バス終点】江田島バス/小用-大須差須浜

■終点:大須差須浜(おおずさすはま) 路線図(少し異なりますが)
東京築地から移ってきた海軍兵学校を嚆矢に、海事都市として発展を遂げた江田島。

島の中央部にある江田島湾から北を望むと、兵学校生徒の鍛錬の場であったともいう標高394メートルの古鷹山がそびえています。目指す大須差須浜はその向こう、繁華な江田島湾沿いとは対照的に、今も昔ながらの風景が残る北岸沿いの一集落です。


市街地に近く、島で最大の規模を誇る小用(こよう)港を出たバスは、岸に沿う環島道路をすすみます。切串、幸ノ浦と点在する集落をゆっくりと走り抜け、まもなく北西端にあたる大須差須浜に着きました。

古鷹山によって江田島市街と隔てられた島の北岸には、長閑で風情ある景色が続きますが、中でも終点・大須は、まるで他の集落と引き離されるように、東を椎ノ木鼻岬、西を鼻グリ岬に挟まれており、とりわけて静かなところなのです。


静かなだけではありません。ここでは漁村では生活の糧とも言える船の姿が見受けられないのです。 これは、集落の向かい、似島との間に広がる大須瀬戸が関係しています。ここの潮の流れはたいへん強く、漁業には不向きなのです。

そのため、大須の集落では農業が古くより盛ん。土地を能美島などにもつ者も多く、かつては農耕船が利用されていたと聞きます。しかし、島の道路網が整備されるにつれて人々の足は車に変わっていきました。

海に面しながら、農業が盛んなムラ。ここでは、農耕船が姿を消すと共に、海が生活から遠ざかったのかもしれません。たしかにバス転回場のほとりにある小さな小さな漁港に繋がれている船もたったの四隻です。瀬戸内の島影が広がるなか、まるで山村のような静けさにつつまれた不思議な終点が、ここ大須差須浜なのでした。


■路線概要
江田島の北岸を走っていた江田島バスは24年春に廃止され、市営のデマンドタクシーに代替されました。
末期は小用港と大須差須浜の間は平日のみ1日2往復、加えて大須や切串との間の区間便もありました。

(24年3月訪問)

2013年1月23日水曜日

【バス終点】伊予鉄道/(川内管内)滑川線

■終点:海上(かいしょ) 路線図(この最も東です)
横河原駅から東進してきたバスは、桜三里の中ほどで小松街道に別れを告げ、渓流沿いの狭隘路を注意深く走り抜けていきます。


この区間は多くの伊予鉄バス運転士さんが声を揃えて「腕の見せ所」とおっしゃるだけあって、路肩にバス停ポールを建てるスペースがない(※)ほどに狭い道路を、小型バスにも関わらずガードレールに付かず離れずで進んでいくのです。
(※)電柱やガードレールにラミネート加工された紙の時刻表が直接貼り付けられています。


目指す終点・海上は名前に反して山深いところで、石鎚山の高峰とそれに続く山々をひかえ、停留所より上流1キロメートルにわたる滑川渓谷は市名勝に指定されています。

滑川渓谷は特に氷柱の名所として知られていますが、この路線は山間部の気候に道の狭さが相まって、積雪や路面凍結による冬季運休が伊予鉄で最も多いそう。氷柱が美しい大寒波の朝などは、残念ながらバスが走らないやもしれませんね。

松山から1時間ほどとは思えない、四国随一のスリルを感ずる名路線でした。

(ここほどポンチョが似合わない路線を他に知りません)
■路線概要
海上と川内バスターミナル間は土曜平日のみ4.5往復のダイヤで、うち一部は横河原駅や見奈良駅、東温市役所まで足をのばします。
長らく平日のみ3往復の運行でしたが、東温市の地域公共交通政策による社会実験として、平成23年より24年度末まで試験的に増便が行われています。
なお、小松街道と別れる落出-海上間が自由乗降区間に指定されています。

 (24年8月訪問)

2013年1月20日日曜日

【バス終点】神奈川中央交通/秦20系統(秦野駅-蓑毛)

■終点:蓑毛(みのげ) 路線図
フロントガラス一面に丹沢の美しい山並みが広がるなか、秦野駅からの神奈中バスはエンジンを唸らせて金目川に沿う急な道を上っていきます。

(回送便ですが...)
丹沢山地といえば関東では知られた行楽地ですが、その人々を惹きつけて止まない美しさや荘厳さは今も昔も変わらず、古来より山岳信仰の対象とされてきました。
なかでも名高いのが大山(おおやま)で、富士山を彷彿とさせる山容がひときわ目をひきます。

終点・蓑毛はその大山の南麓にあり、大和政権の頃より大山信仰の中心として栄えたところです。


集落の北側にある大日堂は、奈良の大仏を建てるおりに聖武天皇の勅願所として創建されたと伝えられ、また江戸時代には地域を治めた旗本・揖斐氏によって信仰登山者向けの茶屋が当地に設けられていました。
 
「蓑毛」という地名とて、大山に登る日本武尊に村人が蓑と笠を送ったことが由来と言われ、ここはまさに大山と共に歩んできた集落なのです。


もちろん今でも大山登山の出発地。バス停のほとりにある登山口からは、江戸時代に建てられた道標に見送られて、今日もまたひとりハイカーが山頂めざして歩いていきます。

■路線概要
秦野駅と蓑毛を秦野市街地や名古木集落を経由して結びます。
所要は全区間で15分ほど。運行本数は日中毎時2本ほどと比較的多いです。
また本数は少ないながら蓑毛の先に向かう秦21系統もあり、こちらはヤビツ峠まで運行されています。

(25年1月訪問)

2013年1月19日土曜日

【バス終点】徳島バス阿南/椿泊線

■終点:小吹川原(おぶがわら)  路線図
阿南市中心部にある橘営業所から30分。バスはひたすら田園地帯を走ってきましたが、やがて小さな切り通しを越えると、眼前に細長い入り江が広がります。その南側に延びる岬が四国本島の最東端にあたる蒲生田岬、北側に延びるのが燧岬で、こちら燧岬に終点・小吹川原の停留所があります。


小吹川原とは、このあたり椿泊集落の字であり、漁港の裏手にバスポールが立っているだけのささやかな終点です。

燧岬と蒲生田岬、二つの岬に挟まれた長い入江は天然の良港を生み出しました。それに育てられたのが、ここ椿泊の集落で、古くは阿波水軍の本拠地として知られ、今でも椿泊漁港は阿南市最多の漁獲高を誇ります。

しかしその反面、陸路は険しく、集落までは狭い道が続いています。バスは谷間や海岸線にへばりつく県道を、巧みなハンドルさばきで抜けていきますが、実はその限界が小吹川原。ここより先、集落の中心には入ることが出来ないのです。

終点の先に伸びる細い路地は、戦前の姿を今に伝える椿泊の古い家並みに続いています。バスすら拒む昔日のままの集落が瀬戸内の隅っこに残っていたのでした。


■路線概要
阿南市の南東部、紀淡海峡に面した燧岬を目指す路線です。
徳島バス阿南のターミナルでもある橘営業所からは、曜日に関わらず1日5往復・所要40分の運行。もともとは徳島バス本体の路線でしたが、昭和60年に徳島バス阿南へ移管されました。

(24年9月訪問)

2013年1月13日日曜日

【バス終点】宇和島自動車/本網代線

■終点:本網代(ほんあじろ) 路線図(一部違います)
由良半島の稜線に沿って走ってきたバスが海沿いの集落に降りてきたかと思うと、まもなく終点の本網代に着きます。


由良半島をはじめとする宇和海一円は真珠の養殖で知られ、ここ網代でも多くの住人が真珠で生計を立てています。バス停の後ろにも真珠小屋とよばれている共同漁具倉庫が並び、バスの真横にも養殖ネットが見受けられます。

太平洋からの風が吹き付ける半島南岸の漁村では、波が穏やかな北岸で多く見られる焼き杉住宅は数えるほどしかなく、コンクリ造の特徴的な家並みが広がります。そして網代の民家の表札をよくよくみると気付くのが「浦和」姓の多さ。

これは近世に網代浦を開発した土佐人・儀左右衛門の功績が宇和島藩に認められ、その子・万蔵に許された姓とのこと。新浦として認められたのが文化5年。2世紀以上が過ぎた今でも開拓者の子孫が代々暮らし続ける由良半島突端の小集落です。

「真珠作っとる方が儲かりますから、海沿いの者は誰も運転士などならんのです」
夜間滞泊について伺ったおり、運転士さんが快活に笑ってこう言いました。ほんとうに豊かなところです。


■路線概要
愛媛県南予地方、宇和海に面して突き出したリアス式海岸が美しい由良半島を走る路線です。
この半島の稜線は宇和島市と愛南町の境でもあり、バスは幾度も境界をまたぎつつ南北両岸にある集落を結びます。


ダイヤは1日6往復。うち1往復が宇和島との直通便で、残る5往復は半島の付け根にある須の川止まりとなっています。
特筆されるのが、毎日終点で3台ものバスが夜間滞泊するということ。終点近くに宇和島バスの運転士さんは住んでいないため、必ず3人全員が乗務員詰所で泊まるそう。古き良きローカル線の姿が残っています。

(25年1月訪問)